対談(大西健丞×杏中保夫氏 )

世界の難民・被災者の命と生活を守りたい

 

「文」2006年秋号より

発行:公文教育研究会

文

(転載はお断りします)


世界の難民・被災者の命と生活を守りたい

 

          大西健丞×杏中保夫氏(公文教育研究会相談役)

 

 

人生は有限。意味ある生き方がしたい

◎杏中――――きょうはよろしくお願いします。まず初めに大西さんの活動についておうかがいしたいと思います。

◎大西――――私たち「NPO法人ピースウィンズ・ジャパン(以下PWJ)」は、“人びとが紛争や貧困などの脅威にさらされることなく、希望に満ち、尊厳を持って生きる世界”というビジョンの実現のため、一九九六年二月に設立したNGO(非政府組織)です。イラク北部のクルド人自治区での国内避難民の支援を皮切りに、アジア、中東、アフリカなどの十六ヵ国で、「必要な人々に必要な支援を」をモットーに、紛争や自然災害による難民・被災者の生命と生活を守るための活動をしてきました。緊急時の医療や食糧・物資の配給から、農業や教育などの復興支援、橋や道路の修復まで、幅広い支援を行っています。

◎杏中――――そもそもNGOを仕事として意識したのは、いつごろからですか。また、戦争を知らない、若い世代の大西さんがこうした活動に入られたきっかけは何だったのですか。

◎大西――――きっかけは,大学時代に父を亡くしたことです。二十歳の時、新聞社に勤めていた父が病気で倒れ、その後、亡くなるまでの二年ほど入院生活が続きました。多感な時期に突然、父が死ぬと言われたのです。また、完全介護でない時代でしたので母と私が交代で父の病室につき添いで寝泊りしていたある晩のこと、離れたところから「死にたくないよ」という声が聞こえてきました。それは三つ先の部屋にいた急性白血病の十七歳ぐらいの青年の泣き声で、それからほどなくして青年は亡くなりました。現代の日本では人の死が必要以上に覆い隠されていますね。病院で人の死を知り、人生が有限だということに気づかされ、人生は一回だけなのだからリスクは高くとも意味ある生き方がしたいと思いました。ちょうどその前後に貧乏旅行をした東南アジアで、現地のNGOの活動を見せていただき、一宿一飯のお世話になったこともあり、NGOに関心を寄せていたところでした。そこで、大学卒業後、第三世界や発展途上国の開発学を学ぼうと、研究の盛んなイギリスへの留学を決めたのです。
 イギリスのブラッドフォード大学大学院では紛争解決を専攻しました。修士で書いた論文の事実関係を確認するため、在学中の一九九三年に一人でイラク北部に行き,難民キャンプなどを目の当たりにしました。どこも悲惨な状況で心を動かされましたが、現地で一番印象に残ったのは欧米のNGOの活躍ぶりでした。それまで私の理解していたNGOとはあきらかに違う彼らはイラクだけでも年間何十億円の予算をもち、無線設備もしっかりしているし、車両もランドクルーザーなど何十台も駆使している。NGOでは「Small is beautiful」という言葉がありますが、百万人の難民が押し寄せる時は「Small is not always beautiful」です。事業体としてのNGOが求められるんです。事業の内容も非常に完成されていて驚きました。しかし当時の日本には、事業体の感覚を持って取り組んでいるNGOは少なかった。日本はODA(政府開発援助)世界一と世界に向けて発言していたのですが、紛争地帯に人道的にコミットするノウハウもありませんし、第二次世界大戦後、紛争とはよくも悪くも離れてきましたから、人材も育っていない。だからこそ、この活動にかかわれたらと思い、大学時代の先生に相談をしましたら、イラク北部での支援を計画しているが誰も挙手しないので予算を返そうと思っているとおっしゃったのです。「返すなら素人ですけれどやらせてください」と言ったのが本格的にNGOとかかわるきっかけになりました。しかし、いざ始めてからは大変でした。資金が少なく、自分の給料を自分で取るとイラクの現地スタッフの給料が払えないので、一年半は無償で働きました。PWJを立ち上げた時も、まだ日本にはNPOに関する法律がなく、私には社会的責任を全うできる資格はなかったので、電話一本引くにも苦労しました。

◎杏中――――当時、NGOワーカーは日本の常識の範疇になかったでしょう。

◎大西――――日本は二十年ぐらい遅れています。だからといって、比較ばかりしないでイノベーションをすれば前進は十分に可能ですから悲観はしていません。

 

龍馬はNPOの先駆けだった

◎杏中――――私は大西さんのご著書や記事を読ませていただきましたが、命がけの活動を飄々とやっておられる。まるで坂本龍馬のような方だなという印象です。龍馬は海援隊という組織をつくりましたしね。

◎大西――――実は今、その龍馬が残したものを保存するための活動に奔走しています。明治維新間近の一八六七年四月、瀬戸内にある港町、鞆の浦(広島県)の沖で龍馬の乗り込んだ海援隊の船いろは丸が紀州藩の軍艦、明光丸と衝突し曳航中に沈没する事故がありました。龍馬は紀州藩に談判を申し込み、鞆の町役人、魚屋萬蔵宅で四日間にわたり賠償交渉に臨みました。その魚屋萬蔵宅が築二百五十年の古民家として残っています。それを、鞆の町並み保存を目的に設立されたNPO「鞆まちづくり工房」が船宿として新たに展開するために修理をしており、私はその側面支援をしています。古民家を直すには膨大なお金がかかりますが、ようやく半分ぐらい完成しました。ところが、大学の先生に一軒だけやっても限界があるんじゃないかと言われ、ふと考えました。町全部にコミットできたらいいけれど、そんなお金はありません。この町は船が入らなくなって衰退したのだから、船を新たに使えばいいと気づきました。欧米の富豪が所有していたようなクルーザーを破格の値段で入手して、ようやく二隻揃え、内海クルーズを始めました。無人島寸前の島の島起こしを依頼され、クルーズ客向けのヴィラを建てる計画も進んでいます。

◎杏中――――地域の特性を生かしたコミュニティビジネスですね。きっと龍馬が時空を超えて大西さんとの縁をつくったのではないですか。龍馬の生きた百四十年前は、日本という国の新しい創造期でした。そして、今はIT革命というそれ以上の大きな大転換期です。創造者という意味では龍馬のつくった海援隊は今でいうNPO的なものかもしれませんね。

◎大西――――株式会社の前身でもあるし、NPO、NGOの前身でもあると思います。

◎杏中――――龍馬はすべて自分たちの頭で考え、実践を通じて、現場で学びながら、どうすればいいかと知恵を出す。国民のため、新たな創造のためという明確なビジョンがあるため、タフな活動も果敢に行ってきましたね。そのタフさを大西さんにも感じます。何だか龍馬と大西さんが重なって見えてきました。

◎大西――――とんでもない。龍馬の足元にもおよびません。しかし、おこがましいですが龍馬の立場が少し理解できるような気もしています。私たちの活動は「ソーシャルアントレプレナー」とか「ソーシャルエンタープライズ」といって欧米では活発ですが、日本ではまだまだ理解されていません。鞆の浦の活動が日本での先駆けになればいいと思っています。小さい、ローカルなコミュニティが世界につながっていくことを前提とした活動です。

◎杏中――――しかし、NGOという言葉は否定形ですから何とかならないものでしょうか。本当は市民活動を意味するCSO(シビル・ソサエティ・オーガニゼーション)というべきではありませんか。

◎大西――――私もまさにそう思っています。

 

地域に貢献し、喜びを感じられる人づくりを

◎杏中――――教育も同じです。根幹は人だと思うんです。たとえば江戸時代。日本には寺子屋という庶民のための学び舎がありました。そのころ欧米では教育は上流階級のものでした。日本はその当時から地域社会にコミットし、地域ぐるみで子どもを育てていた。これはNPOに近い活動です。世界に冠たるものです。だからこそ地域で人が育ったら大逆転が起こると思うんです。日本の国起こしは、厳密にいえば国ではなく地域起こしです。地域にビジョンと市民の連帯があれば必ずうまくいくはずです。私たち公文は教育で世の中を変えたいと思っています。世界の貧困や紛争をなくしたい。子どもの中にある可能性こそ地球にとっての価値ある宝物です。その可能性を引き出していきたいと思います。

◎大西――――私たちの復興プログラムにも教育は必ず入っています。公のことを民がやってもいい時代ですね。

◎杏中――――そうです。私は、「義」がない組織は継続できるはずがないという確信を持っています。義が人を変え、最高の力を導き出す。これが先義後利の思想です。そして正しいことに人々は理解を示し、賛同してくれるものです。

◎大西――――私も時折、大学などで話をする機会があるのですが、たとえば東大で教えたりすると、数年前は、「NGOなんていうものも世の中にあるのか」と、社会学的な視点で見られていたのですが、最近は本気でサードセクターやCSOの仕事につきたいという学生が増えて驚いています。
 鞆の浦の現場で思ったのはいかにうまく資本をつくるかということです。日本ではまだ企業がそこまで支える文化も育ってませんし。

◎杏中――――今の限られた枠組みの中でブレークスルーするためには成果を出さなければならないでしょうね。たとえば国が行うと百円のものをNPOが行えば二倍三倍の付加価値のついたものが創造できると思います。価値観も生き方も変わってくると思います。これからは、地域社会に貢献することに対して喜びを感じられるような人が多くなってほしい。ソーシャルアントレプレナーはそれを目指すべきだと思うんです。

◎大西――――自分たちのことは自分たちでする社会になるといいですね。杏中さんがおっしゃったように、江戸時代、すでに多少の原型がありました。徳川幕府や藩が許可をして民間の手に港湾などを委ねて建設させたそうです。たとえば鞆の浦ですと、石で組み上げた波止場の「波止」とか石を階段状に組んだ船着場の「雁木」がつくられ、今も現役で使われています。これらは地元の商人たちがそれぞれの割合で寄付してつくったものです。民間資本百%の公共財です。市民社会的なものとしてアピールしていけば、街のいいシンボルになると思いませんか。

◎杏中――――すばらしいですね。鞆の浦という瀬戸内海の歴史ある温暖なところで大西さんたちの知恵が入り、人が育ち、こういうことができると示していただきたいですね。

 

幼い日に出会った陽明学の教え

◎杏中――――ところで、大西さんは幼稚園、小学校、中学校ぐらいの時はどのようなお子さんでしたか。

◎大西――――ごく普通の子どもでした。変わったことといえば私の育った大阪の家は山片幡桃の墓や大塩平八郎の記念碑など陽明学ゆかりの土地にあったことぐらいでしょうか。

◎杏中――――陽明学に育てられたようなものですね。陽明学は一回のめり込むと放っておけない気持ちや義憤が芽生えます。大塩平八郎、吉田松陰、佐久間象山、山田方谷……良知の人ですよ。

◎大西――――そのせいか、父は陽明学に影響を受けた厳しい人でした。正しいと思えば、負けるとわかっていても戦えと教えられましたから。明らかに陽明学的な発想です。私は、クルディスタンの山奥でクルド人のしぶといゲリラ戦法を見、イラク軍に包囲されて山に逃げたこともありますが、そこで結局は最後まで生き延びなければならないと悟りました。破れかぶれで、だめだったら死んでもいいやではいけないというのは中東で学習したことですが、いずれにしろ、父が教えてくれたのは、男は負けるとわかっていても戦わなくてはならない時があるということです。

◎杏中――――いいお父さまですね。龍馬も常に死の危機にありましたね。彼は一見無防備で、命なんか要るかというそぶりを見せながら、危機を越えていく。クルド人自治区を見た時、自分の命は守りたいと思ってしまったら信頼ないでしょうね。弾が飛んできて、心の中では「ワーッ」と叫んでいても、妙に腹がすわるというか……。

◎大西――――そうですね。でも、本音を言いますと、この年まで生きてこられると思いませんでした。どこかで死ぬだろう、どうなってもしかたがないと。「男子、路傍に転がるとも志を立てよ」という精神が刷り込まれているので。
 母は国体に出場した経験のある水泳の飛び込みの選手で、高校の体育教師をしていました。息子が言うのもおかしいですが根性がある女性です。母は飛び込みの衝撃で片目を失明したのですが、隠しながら競技をしていた。本当は教師にもなれないはずなんですけれど、黙っていたみたいです。完全な体育会系です。ですが、わが家は典型的な昔の家庭で、父は昭和一桁生まれでしたから、家では父が絶対でした。居間で座る順序は必ず父が上座で、食事も父が箸をつけるのを見てからでした。私は小学校五年まで成績が徹底的に良くなくて、もし小学校に卒業試験があったなら卒業できないぐらいでした。先生の話を聞かず、教科書以外の本ばかり読んでいました。母が幼い頃から本を読んでくれていたため、読書は大好きでした。そうかと思うとガキ大将でケンカは一度も負けたことがありません。中学校、高校、大学時代と水泳部に在籍し、水泳部の主将をしていました。

◎杏中――――いいご家庭で育たれましたね。

 

企業と手を携えるために

◎大西――――外の世界から日本に戻り、気づいたのですが、私たちの活動はまだ閉塞しているんです。欧米ほど急伸しないのは、社会的なインフラがなかったり、ブロックされている部分があるからです。それを突破するためには,私たちと同じ志を持っていらっしゃる企業の方に呼びかけ、企業とNGO、NPOが、目的に向かって手を携える成功例をつくらないといけないと思い、鞆の浦の活動をさせていただいています。NGO、NPOは、義に一本気に向かっていくだけでは大きな仕事はできませんし長続きもしない。そこで、どうやってお金を回していくかが,日本のサードセクターがこれから伸びていくために絶対必要なことだろうと思います。

◎杏中――――義を大事にし、利を考える、一見矛盾していますが,サンスクリット語で義と利は同じ単語です。利も義も世の中をよくするためにあるのです。アメリカ国防省がインターネットを開放したのが九〇年代の初めで、民間に広がったのは九四年から九五年、そしてPWJを設立されたのが九六年ですね。大西さんは時代の申し子のような気がします。感性と時代とが一致したのだと思います。

◎大西――――私は大きな勢いに押されているという気がしてしかたありませんでしたが。

◎杏中――――浄土真宗では「他力」と言うんです。でも大西さん、二〇〇二年に政府主催で開催された「アフガニスタン復興支援会議」の出席拒否事件は大きな機会だったと思いました。NGOとは何か、NPOとは何かが日本で一般に認識されるきっかけになりましたから。国会の参考人招致を拝見していて、若いのに堂々としていらっしゃるなと思いました。

◎大西――――あの時はものすごく緊張しました。おどおどしたり、相手に媚びてしまったら間違いなく日本におけるサードセクターの道を塞ぐことになるだろうということを強く意識していましたから。ここでしくじったら多くの人に迷惑をかけてしまう、では今、自分のなすべきことは何かということをものすごく考えました。唯一できると思ったのは「堂々としていよう」ということでした。悪いことはしてないし、ここでは弾も飛んでこない、命のやりとりもない。「堂々と筋を述べよ」と自分に言い聞かせ、「命のやりとりになっても構わないぐらいの覚悟で行け」と自分を励ましていました。
 実はイラク北部で活動を始めて間もない頃、紛争地帯に駐留し、二百人のスタッフを率いている時に戦車部隊に包囲されたことがあるんです。相手は大将の私の一挙一動を見ています。私に一ミリでも動揺があったら、一気に全体に伝播するんです。心の中ではしまったと思っていても表面上はどこ吹く風という感覚でいなければ突破できません。もし、総攻撃されてつかまったら銃殺刑です。現地人のスタッフは「つかまったらどうしてくれるんだ」と私につめ寄りましたが、ニッと笑って、「心配するな、少なくとも一緒に死んでやる」と言ったらその場の緊迫した雰囲気が少しおさまったという経験もありました。

◎杏中――――やはり強い方だ。大西さんがPWJをつくられて十年、命の危険にさらされながらも続けてこられた理由は何ですか。何がご自分を動かしていたのですか。

◎大西――――特別のものはありませんが、私が辞めると難民キャンプが少なくとも十ヵ所ぐらい見放されてしまうのはわかっていましたし、失業率八十%以上の中で自分を信じてついてきてくれている現地スタッフもいました。日本とは状況がまったく違います。何よりもまず、何とかこの紛争地帯の状況を民間の力でひっくり返したいという思いもありました。何でそんなことにリスクをかけるのだと言われることもありますが、紛争地帯の最前線に行き、悲惨な状況を見たら、何かしたい、しなければ、と思う人がほとんどではないかと思います。

 

これからの教育が担う役割は大きい

◎杏中――――学生時代にイギリスに行かれて国際紛争を学び、ご自分の目で戦いの現場を見られたことが大きいのではないでしょうか。見てしまったからには中途半端ではいられない。何とかしなければという思いが行動になり、行動が新しい発想を生んでいく、陽明学的に言えば知行合一です。大西さんが今やっておられることは、大きな価値の創造です。

◎大西――――ただ単に自分一人の立身出世を願うより、公のために尽くすことは意味があるとイギリス留学中に実感しました。イギリスで五歳の子どもに、「あなたは何をやりたいの」と聞かれ、「NGOワーカー」と答えた時、「I'm proud of you」、「I respect you」と子どもに言われて感動したことがあります。それは親が、社会のためにリスクを負って何かをしている人に対して尊敬の念を持つ風習があるからだと思うんです。そうした気持ちがないと、誰も私財を投げうちリスクをおかしてまで、一市民でありながら公のために働くという発想は出てこないでしょう。
 私は日本もそのようにカルチャーを変えていく必要があると思います。そして、それは教育が担うことだと思います。海外での難民、避難民に対する教育ももちろん大切ですが、国内でもサードセクターが育っていくためには、教育がすごく重要な一つの鍵になっているのです。大学生、高校生はもちろん、小学生の頃から、世界で起きていること、それを解決するために民間の力でできることを伝えていきたいと思っています。

◎杏中――――今までは世界のどこかで起こったことは充分伝わらないまま忘れ去られてしまっていましたが、ネット社会というのは、時間も空間も同一ですから、今、日本から遠く離れたイラクで、アフガニスタンで、あるいは東ティモールで起こっていることが日本の市民に直に伝えられる。日本人はこういうことに対して感度が鈍くなったという人がいますが、私はそうは思いません。老子の「国乱れて忠臣あらわる」という言葉ではないですが、こんな時にこそ「仁義すたれて大道あらわる」ではないでしょうか。まずは大西さん、鞆の浦で、「すごいことが起こった。こんなに変わるんだ」と成果を出すことです。

◎大西――――そうですね。たとえ小さくても、何かができるということを示せればいいと思います。

◎杏中――――お話をうかがって元気が出てきました。ありがとうございました。

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