「地雷を踏んでしまったときは、本当にひやりとした」。死と隣り合わせの紛争地帯での救援活動を続けている、国内最大手のNGO、ピースウィンズジャパン(PWJ)。その統括責任者として、私は昔を想いながら、現場に向き合っている。起爆装置が壊れていたので、実際には爆発しなかったのだが、自らの危険を顧みず、現場で救援をしていく原動力となっているのは、こうした1つ1つの経験だ。

あるとき父親が入院をして、夜中にその付き添いをした。すると、どこからかすすり泣きが聞こえてきた。父親が入院した病棟には、重病の患者が数多くいたのだ。

「死にたくない、死にたくない」。彼らの声を聞いているうちに、「人は本当に明日生きているという保障すらないもの。みんなそれを忘れているだけなんだ」と思った。「もし若くして死ぬことになっても、納得できる人生を送りたい。そのためには、やりたいことはやっておかなければならない」。

このころ既にNGOや紛争解決に関心を持っていたが、自分がいかにそれらに関わっていくか、ということまでは見出させずにいたという大西さん。就職活動もしておらず、かといって大学院に行くだけの学力もないと、どっちつかずの状態だった。

しかし大学4年のときの父親の死をきっかけに、イギリスに留学することを決心。父親の保証金を、母親が、「お前の勉強のために使いなさい」と言ってくれたからだ。英語は苦手だったが、イギリスで研究が盛んな「紛争解決学」を学びたかった。

 イギリス留学期間が終わりに近づき、イラク北部の紛争についての修士論文を執筆していた時の事だった。大西さんの心に一つの疑問が浮かんでくる。自分自身はもちろん、執筆の参考にした著名な学者の誰一人として、実際に紛争の現場を見ていないことに気づいたからだ。現場を知らない自分が、現場の知らない学者の本をもとに、現場の話を書いている。そう思った大西さんは、トルコからイラクへ単身密入国を果たす。

イラク北部で、「アジア人権基金」という日本のNGOの調整員として働いた。活動を続けるにつれ、強く違和感を抱くようになった。欧米のNGOは日本製の車を何十台も使って大規模な支援活動をしている。一方、日本のNGOは、車一台買えないありさま。「当時ODA総額世界一の経済大国なのに、です。日本社会の現状はおかしいのではないか、と強く感じました」

その後、コソボ紛争や東ティモール問題があった時も、日本政府からNGOへの緊急支援の時期に使える支援金は1円もなかった。なぜこのような状況が生まれるのか?

現場での経験を積む中で、日本社会の対応を数多く見てきた大西さんは結論を出した。それは「日本には、『シビルソサエティ』が築かれていない」ということだった。

掲載:東京大学新聞 2005年3月10日