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目がしばしばするのが気になりながら、トルコ東部にあるディヤルバクルという街を1993年7月の半ばに歩いていた。目が気になるのはその数日前まで、ヨーロッパ・アルプスでイギリス人の友人とモンブランに登っていたからで、サングラスの隙間から入ってくる氷河の蒼みがかった太陽光の反射で、軽い雪目を起こしていたからだ。今より10キロも痩せていた半身にリュックサックとピッケルを背負い、昔より軽量化されたとはいえ、イカツイ重登山靴を履いて、一人その街を徘徊していた。傍目にも、異様に見えたのはまちがいない。
クルド人が住民の大半を占めるその街は5000年以上の歴史があるといわれ、アナトリア高原の東のはずれに位置している。トルコの地図には絶対載っていないが、クルディスタンという地理上の区画区分の西端を占める、最初の大きな街である。トルコでは1991年まで公式にクルド人の存在が否定され、クルド人は山地にとりのこされたトルコ人という意味で、Mountain Turks(山岳トルコ人)と説明されてきた。1993年当時も、まだ人前でクルド語をぺらぺら話す雰囲気ではまったくなく、街角のあちこちで、陸軍情報部の目が光っていた。
「向こうのイラク側に行ったら、殺されるかもしれないよ。なにせ、あっちのクルド人は獰猛だからな」。泊まっていたホテルの飲み屋で、自称ツーリスト・ガイド兼援助コンサルタントのサディック氏は半ば脅しで、半ば面倒くさいことは起こさないでくれよという顔で言った。何度あっちの側に行ったのかと聞くと、1回だけだという。案外クルド人同士も国境にはばまれて互いの交流が疎遠になっているなと思った。彼の疑わしげな瞳が、口髭のいやしさとあいまって、見下されたように感じた。反発から、「よし、行ってやるぞ」という気持ちが湧き上がってきた。
翌朝、トルコでライセンス生産されている黄色に塗られたプジョーのタクシーに乗って、約500キロ離れた国境を目指した。よく舗装されてはいるが、50キロごとにトルコ軍の検問があり、小さなリュックサックの底まで全部ひっくりかえすようなチェックを受けねばならなかった。夕方前にようやく、トルコでは最後の町になるシロピを通過することができ、灰色のコンクリートビルが六つほど立ち並ぶ国境警備所を3時間も待たされた後になんとか通ることができた。国境の小川に架けられた橋を渡ると英語で「クルディスタンにようこそ」と書かれた看板が目に飛び込んでくる。妙にほっとするその看板を右端に見ながら、イラク側のクルディスタンでは最初の町になるザホに着いた。中東の大きな夕陽がきれいだったことが目に焼き付いている。後で、中東の夕陽がきれいなのは、砂漠や土漠から大気中に舞い上がった砂塵やホコリが、太陽光線の赤にあたる部分以外は屈折率の関係でカットしてしまうためだと知った。
どうして大きな地図をよく探さないと見つけることも難しいクルディスタンに単身訪ねることになったのか。この問いはよく尋ねられる「どうして、NGOやってるの? 動機は?」という質問と重なるところが多いので、少しだけ触れてみたい。
湾岸戦争が終わって1991年の3月に、サダム・フセインは反旗をひるがえしていた北部のクルド人に対して、温存された共和国防衛隊を使って攻勢をかけ、200万近いクルド人がトルコ、イランに難民となって逃げ出した。メージャー英首相が機中で思いつき、そこにあった紙の裏に書いた案をもとに、中東地域に展開していた米英仏蘭の軍が、イラク北部のクルド人居住地域の一部を安全地帯とするため軍事介入を行った。一般には「人道介入」として喧伝された。
私がイギリス・ブラッドフォード大学大学院に留学していた1993年は、まだ湾岸戦争が終わって2年しか経っていない時期だったこともあって、イギリスの学舎でも『人道介入論』なるものが流行っていた。「人道介入」としては冷戦後初となるイラク北部のケースも、多くの研究者が論文を著している。このクルディスタンでの「人道介入」を修士論文のテーマに選んで慣れない英語で四苦八苦していたが、ある日、学者のだれも、現地に赴いていないという事実に気がついた。「ひょっとしたら、全部ウソとは言わないが、想像か?」という疑念がよぎる。そんな論文をもとにした私の駄文は「うその上塗り」じゃないかと急に恥ずかしくなった。
「知力で及ばない分は体力でとりかえすしかない」という信条のもと、クルディスタンに向かったのである。
本当のところは当時、山岳にはまっていて、英国留学時に氷壁登攀を行うために、スコットランドやアルプスによく授業をサボって赴いていた。半分しか分からない英語での授業中に、よく、まだだれも行ったことがない山岳地を地図の上で探していた。そして、イラクとイランのあいだにあるザグロス山脈に興味を惹かれた。登山どころか、ゲリラしかいないんじゃないかと思える山々の連なりが地図の上に広がっていて、若者のフロンティア精神をかきたてた。彼の地に住むクルド人という「山岳民族」の写真にも冒険心をくすぐられた。知的好奇心というよりは、山に登りたいという下心いっぱいのスタートだった。
程度のたいへん低い理解で、実際は、クルディスタンの山々は地雷があちらこちらに敷設されていて、とても登れたものではなかった。放牧に頼る「山岳民族」とばかり思っていたクルド人は、50年代からのイラクの近代化の影響やサダム・フセイン政権の強制移住政策もあって、6割が都市や町に住み、かなり都会化しているということも、後になって知った。
最初の町ザホで、黄色いトルコナンバーのプジョーを降りた。二日後、1980年代半ば製のアラビア文字ナンバーが付いたトヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンのタクシーに乗り換えた。ドホーク、アクレという町を通り、クルド人自治区で最大の70万人を擁する街、アルビルに向かう。道中2回もパンクし、摂氏45度を超える中、ラジエターからは水蒸気が噴き出す始末で、6時間の道程が、余計に4時間ほどかかってクタクタになる。車中、黒いベールを軽く頭にかけ、3歳ぐらいの女の子を連れた女性と同道した。少し英語が話せたので、ご飯やチャイのときに助けてもらった。
ビンセントもロザンナも殺された
「ビンセントは1カ月前に、スレイマニア郊外の丘陵地帯で殺された。坂を上るとき、車はどうしても減速する。そこを最上部で何人かが待ち伏せていて、AK47という自動小銃で狙いをつけていたんだ。かわいそうに遺体の損傷がひどくて、ベルギーの両親のもとに送り返す際にひどく手間取ったそうだ。お前もあっち側では気をつけろよ」。イラク北部のクルド人自治区に入ってからも、サディック氏にトルコ側でそう捨て台詞を残されたことは、なかなか頭を離れなかった。
1993年当時から、クルド人自治区で活動する国際NGOには、懸賞金がサダム政権側から懸けられていた。ベルギーのNGOで働いていたビンセントは「懸賞金に目がくらんだ何者かに殺された」と、ザホの警察署で、あばただらけの顔をした40歳前後の自称警部は説明していた。他にも、サダムが化学兵器で殺傷した被害者の状況を記事にしていたロザンナというドイツ人の女性ジャーナリストが、タクシーに乗った二人組に、追い越し際に撃たれてボディーガードごと即死したなど、この初めての訪問以前にも幾つか事件はあった。その後にも、NGOで働いているクルド人スタッフを含めれば何十人も命を落としているが、捕まった犯人の自白によれば、国際スタッフには2万ドル前後、クルド人スタッフは3000ドルの値段が付いているとのことだった。クルド人自治区に入って、古びたクラウン・ロイヤルサルーンの車中で揺られながら、死んだ二人や、残された両親のことを考えていた。
その後、それぞれの殺害の現場には、双方の両親の寄贈で、ビンセントの空を仰いだ像とロザンナの大きな写真が掲げてある小学校が建設された。今でも、若い二人が殺された場所を通過する際には、気持ちが引き締まる。二人が殺された背景には、各家庭にテレビはなくとも、ロシアで開発され、その後、共産圏でコピーされたAK47カラシニコフ・アサルト・ライフルは必ずあるという事情がある。また、国際社会とイラク政府側との両方から、経済制裁をかけられており、貧困にあえぐ人々が急速に増加していったという社会的背景もあった。クルド人自治区で活動するNGOは危険と隣り合わせ、いや狙われているので、ほとんどすべての団体が武装ガードマンを雇っていた。
車窓から眺めると、羊飼いからクルド兵まで、肩からなにやら銃をぶらさげている。もちろん平和な国からきた若者に、銃を持つ者の心理状態まで分かるはずがないから、「まだ二人のように撃たれたくはないな」と、摂氏45度を超える車内で茫洋としていた。
ところで、AK47のような小火器の廃絶を目指した国際会議が最近、頻繁に開かれるようになってきている。だが、紛争下でヤミ経済しか存在しないような地域では、お金を安心して預けられる銀行はなく、不穏な社会状況の中、銃は「投資」に値する。100ドル、200ドル前後で値下がりせず、緊急時には唯一、家族を護れる「資産」だからだ。紛争地帯の闇経済を、地べたを這うような分析をすることなしに、銃の氾濫を防ぐような援助介入は難しいと思う。
NGOにもいろいろあった
アルビルに着いた後、幾つかの難民キャンプを見る。今度は、ロシア製の70年代につくられたラダーに乗って、時速50キロの旅だった。プラスチックと紙でできた、衝突したら絶対に命が助からないと言われている車である。たいていは、お化けの木のような、くるみの老木がまばらにしか生えていない乾燥した土地が避難民キャンプだった。泥でこねたり、がれきを積み上げたりした壁に、青いビニールシートを屋根代わりにのせてつくった小屋か、ボロボロになったテントで多くの人々が生活していた。
状況は先進国からきた学生の目には悲惨なものとしか映らなかったが、不思議にも心を捉えたのはそんな難民・避難民の過酷な状態ではなく、少しでも状況を良くしようと駆けずり回っていたNGO、特に、欧米のNGOだった。それまで、フィリピン、インドネシアなど東南アジア島嶼部で活動する現地の開発NGOを見たことがあった(というより宿を借りたり、ご飯を恵んでもらったりしたのだが)。貧乏学生の目には、自転車に乗って近くの村落を巡り、小さいながらもそこに住む人々の問題を地道に解決していく姿は、「スモール・イズ・ビューティフル」と経済学者シューマッハが70年代半ばに唱えた理想を、地で行くように感じられた。
だが、クルディスタンで目にしたNGOは、ロジスティックス(物資の調達・輸送)というアングロ・サクソンの概念を現実化したように、四輪駆動車、それも日本製を何十台もオフィスの軒先にならべ、何百人もの現地スタッフを雇い、何百キロもの範囲と何十万人という難民・避難民をカバーし、ヤエスのHF無線で遠隔地に指示を出していた。
NGOは小さいものだ、小さくなければならないと思っていたから、衝撃だった。確かに、何百万人もの難民が発生している状況下では、常に「スモール・イズ・ビューティフル」とは言っていられない。少しプロジェクトが粗くはなるだろうが、スケール・メリットを追い求める必要性も出てくるだろう。サイズが大きくなると事業体としてのマネジメントも必要になるだろうし、大きなお金を扱うためには複雑な会計システムも要求される。多くの内部システムを動かすためにはスタッフのトレーニングも重要だ。つまり、事業体としての責任が要求されてくる。東南アジアのNGOには人の手作りの温かみが感じられた。だが、東南アジアの開発NGOがおかれている環境と、紛争地帯で活動するNGOの環境はまったくといっていいほど異なっていた。
1993年夏、アルビルの郊外をロシア製のオンボロなラダーは、100キロもの速度差でフランスNGOの車に追い越されながらノロノロ走っていた。「なぜ、高いリスクを承知で、NGOはクルド人自治区に展開しているのか」といった難しいことを、騒々しい車中で考えようとしていた。いや、正確には暑さでダレて朦朧としていただけかもしれない。「NGOレベルの人道介入」といった考えが浮かぶと、すぐに頭の中で、もう一人の自分が「ええ格好言うてるだけちゃうのん?」と反対のことを言う。一面茶色の景色を眺めて、体温よりも高い温度のバック・シートにうずまりながら、意識が消えていったのを憶えている。
その旅の1年半後、私はNGOスタッフとしてクルド人自治区に関わることになった。銃弾や砲弾が飛び交う危険な紛争地帯で欧米のNGOが活躍する姿に感銘を受け、「NGOワーカー」になる道を選んだのだ。
それから10年余り、世界各地の紛争や自然災害の現場で働いてきた。それは文字通り「常在戦場」の日々だったように思う。中間決算のつもりで、振り返ってみたい。
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