インタビュー INTERVIEW

スタジオジブリ プロデューサー 鈴木 敏夫 氏

スタジオジブリ プロデューサー鈴木 敏夫

その社員旅行が、「崖の上のポニョ」が生まれるきっかけになりました。

大西君とは床屋が一緒なんです(笑)。NHKスペシャルを見てNPOに興味を持っていたころ、ジブリの社員から、大学の新聞学科の同期におもしろい人がたくさんいると聞いた。その一人が大西君でした。そこへちょうど鈴木宗男事件が起きて、僕はジブリの雑誌『熱風』で「われら同級生」っていう座談会をやろうと提案したんです。
結局、学生時代はみんなそれほど仲が良くなかったとかで(笑)、実現はしませんでしたが、大西君にNPOのことを教えてもらおうと思って会った。そしたら実は僕が住んでいる恵比寿に元の事務所があって、同じ人に髪を切ってもらってることが分かったんです。それで、せっかくイラクなんかで活動しているから、『熱風』に何か書いてもらったらおもしろいと思い、「NGO、常在戦場」の連載を依頼しました。

そこから交流が始まりましたが、あるとき大西君から、瀬戸内海に鞆の浦という古い港町がある。このままじゃ寂れてしまうから、ジブリのスタッフが来て作品を作ってくれないか、と提案されました。いきなりそれは無理だけど、社員旅行なら協力できるということで、2004年に行ったんです。
今だから言うけど、宮さん(宮崎駿監督)は最初、大反対でした。「11月に瀬戸内海に行って何が楽しいんだ」と(笑)。でも僕には、鞆の浦に行けば次の作品のイメージが何か浮かぶんじゃないか、という思惑があった。結果、その社員旅行が、「崖の上のポニョ」が生まれるきっかけになりました。大西君がそれを手伝ってくれて、非常に嬉しかったです。

東日本大震災の支援でも大西君に協力してもらいました。ああいうとき、僕たちが何かしたいと思っても、なかなか手立てがありません。でも大西君たちと知り合いだったおかげで、「となりのトトロ」を避難所で巡回上映したり、「コクリコ坂から」の試写会を開いたりできた。ああやって被災された方と直接いろんなお話ができたことは、僕らにとって貴重な経験でしたし、思いついたことを実現できて本当に良かったです。

大西君は一言で言うと「関西人」(笑)。東京の人はお題目だけで実行が伴わないことが多いけど、関西の人は理念よりまず行動ですよね。それにあの体格と笑顔で、押し出しが強いでしょ。そういうのって、何かを実際にやっていくとき、リーダーに必要な要素だと僕は思います。NPOなんてお金がもうかる商売じゃない。そこに自分を託す大西君に僕はほとほと感心しています。

これからの大西君に期待したいのは、理想を失わない現実主義。なかなか難しいんですよ。ともすると、現実に絡め取られて理想を見失ってしまうから。彼は今、理想主義と現実主義を一人二役でやっているように見受けられますが、一人だとどっかで矛盾が生じて、やることが小さくなってしまいます。本当は、映画の監督とプロデューサーみたいに、女房役と分担できたらいいと僕は思うんですけどね。
そして、やっぱりある段階からは政治の力も必要だと思います。大西君の行動範囲は広いから、なかなか民間だけでは難しい。国なり地方自治体なりと協力して、お金の埋め合わせもしてもらいながら、政策づくりに知恵を出し働きかけていく。やりたいことを実現するうえで、それが本当の力になるという気がします。

一般社団法人 日本経済団体連合会 国際経済本部長 金原 主幸氏

日本経団連 国際経済本部長金原 主幸

大西健丞さんは「日本の宝」です。私だけでなく、彼を知った人は政治家も含めてそう言います。

大西さんは日本の宝です。私だけでなく、彼を知った人は政治家も含めてそう言います。
問題の突破口を開く「自分にはできないことをやってくれる人」、大西さんのそういう部分にみんな魅力を感じるのです。

私が大西さんに出会ったのは、もう10年以上前ですが、その強烈な第一印象を今でも覚えています。当時、私は経団連のシンクタンク「21世紀政策研究所」で、日本の国際貢献について研究をすることになりました。なかでも、「非政府」「非軍事」の国際貢献はどうあるべきかを探るために、いろいろなNGOの話を聞いてまわっていました。
そんなある日、イラクで活動しているピースウィンズ・ジャパンというNGOがあると聞き、大西さんに会いに行ったのです。
他のNGOと何と違うのだろうと思ったのは、大西さんとピースウィンズ・ジャパンの明るさでした。
イラクで命懸けで難民支援をしているのに、悲壮感がなく、青年実業家のようないきいきとした印象は、当時NGOについて素人だった私が持っていた先入観とは全く異なるものでした。

その出会いがきっかけで、ジャパン・プラットフォームの設立に携わりました。当時の日本の国際緊急援助には、NGOに素早く資金を供給できる仕組みがありませんでした。大西さんが中心になると、周りの人間を巻き込んで、普通だったら絵に描いた餅で終わることが、次から次へと実現していきました。
問題の指摘はできても、自分が組織の歯車になってしまうと、様々な制約やしがらみがあるため、行動に移せないことが多々あります。産官学いずれにも属さない大西さんが突破口となって、普通じゃ実現できないことを成し遂げる。そんな彼の動きこそ、「真のシビルソサエティ」を体現していると感じます。だから私は大西さんが言うなら応援したくなるのです。

鈴木宗男氏との一件では、叩かれたり誹謗中傷されたり、辛かったと思いますが、大西さんは乗り越えました。しかも、単に対立するだけでなく提案もできる、そんな姿を見ていると、こちらまで勇気づけられます。

今後は、第2、第3、第4と続く大西さんのような若者がNGOの世界にでてきてほしいものです。
大西さん自身にも、まだまだチャレンジし続けてほしいと思います。

元日本経済新聞編集委員/明治学院大学教授 原田 勝広氏

元日本経済新聞編集委員/明治学院大学教授 原田 勝広

僕は大西健丞さんのことを
「日本のNGO界のイチロー」と呼んでいます。

日本のNGOに関心を持ち始めたのは、日経新聞のニューヨークに赴任していたころ。1992年のリオサミットで海外のNGOのパワーに圧倒されて、帰国後、日本のNGOにも取材をしてみようと、最初にインタビューしたのが大西さんでした。当時、ピースウィンズの事務所があった五反田のマンションの一室を尋ねると、まん丸顔の若者が出てきて、その彼の話がものすごく面白い。夕刊の「地球人」というコーナーで紹介し、政府と企業、NGOが連携して海外での緊急支援を行うジャパン・プラットフォーム〔JPF〕構想もコラムで記事化しました。この構想は、日本のNGOが緊急支援の現場でもっとスピーディーに大規模に活躍できるよう、企業と行政が資金面でサポートし、自然災害や紛争などから世界の人を救うことにつなげるシステムをつくろうというもの。アイデアとしては面白いけれど、当時の日本でそれが可能なことなのか、ちょっと難しいように思えました。でも、その記事を読んだ当時大蔵省・主計局主計官の村尾信尚さん(現キャスター)から連絡があり、外務省や経団連の協力もあり、この構想の実現につながりました。画期的な出来事です。

それまで世界の貧困や環境問題を解決するのは、政府の仕事であり、政府からの拠出金を受けて国連が実務を担うというのが常識でした。でも、国の財政が減り、世界の課題に対して「官」だけでは対応しきれなくなるなか、技術や人材、資金などを有する企業の存在が注目されるようになっていました。企業側もCSR(企業の社会的責任)の視点で公益のために行動しようという流れができ始めていました。そうした潮流をちゃんとつかんでいた大西さんは、現場で臨機応変に対応するために、政府とはもちろんのこと、NGOと企業の連携の可能性も探り、当時「反行政・反企業」と反対することで存在意義を保っているNGOもあるなかで、衝撃的な登場ぶりでした。NGOの世界を変えた男、それが大西さんです。僕が「イチロー」と呼ぶのはそうした理由からです。

彼の、人の先をいくアイデアが人を動かしてきました。JPFにかぎらず、2011年3月11日の東日本大震災は、まさに彼が国内災害向けにつくったシビックフォースが活躍しました。企業・行政とNGOが連携して災害時に協力する「プラットフォーム」のアイデアを、災害が頻発するアジア地域にも広げていこうと設立した「アジアパシフィックアライアンス」もすばらしいアイデアだと思います。

彼の性格で感心するのは、どんな窮地に陥っても、いつも度胸が座っていることです。大学3年生のときにお父さんを亡くし、短い一生を精いっぱい生きるんだと心に決めたそうですが、そういうことも影響しているのかもしれない。イラクでもアフガンでも危険な現場で堂々と人の役に立つことをしており、それも彼を一回り大きくしたのでしょう。アフガンの復興会議を日本で開催するにあたって、ある有力政治家と対立せざるをえなくなったときも、恐れることなく正しいことをしようとする姿勢でした。普通ならおじけづいてしまうような局面に遭遇しても物怖じしない。その姿勢を横で見ていて、経営者や政治家になっても成功した人なんじゃないかと思ったりしました。

いつも「前のめり」だから、一緒に働いているスタッフは、大変かもしれないけど、男女を問わずギリギリのところでも、人にやさしくできることが彼が多くの人をひきつける魅力の一つではないでしょうか。